画家・岡田謙三の世界 
Kenzo OKADA 
 岡田謙三と良き仲間たち Keiji  SHIMAZAKI

 島崎 鶏二 (1907~1944)

 早逝の若き盟友

 翌年春には明治学院中等部を卒業しようという1920(大正9)年9月、18歳の岡田謙三は美術への熱い思いをノートに記した。
「はやく美術学校に入りたい。思う存分画家を発揮したい。自分は天才でも何んでもない。が、どうしてやめられようか。誰が何と謂ふと。人間は、自分は、あと50年位すると死ぬ。併し現実は現実である。そうなると、何んな事があろうと決して画家はやめられぬ。......早く中学を卒業したい」
 翌年、進学志望の東京美術学校(現:東京藝術大学)受験に失敗した岡田は、川端画学校で学ぶこととなる。そこには前年4月から在籍する島崎藤村の次男・鶏二がいた。また、岡田と入れ違いで明治学院に入学した藤村の三男・翁助も、翌年には明治学院を中退してこの川端画学校で学ぶことになる。

 当時の画学校の様子を翁助が自伝に書いている。
「私もこの"川端"に籍を置く少年画学生として、まだガス灯の仄青い街灯の消えぬ早朝の麻布飯倉から、お堀端に添って水道橋へ抜け、朴歯の下駄を鳴らしながら徒歩で通った。麻布の高台から芝浦沖を通る帆掛船の走るのが広がりの裡に眺められた頃である。石膏デッサンを二年、人体デッサンを一年、次いで油絵具による習作に専念するのが日課になっていた。研究生の資格は中学三年修了以上の学歴を必要とする規則になっていたが、私も兄の鶏二も規則違反であった。兄は小学六年卒、私は中学一年中退で、入学を特別に許可されていたからである。やはり一種のモグリ入学と言えないことはない」
 画学校では東京美術学校の教授でもある藤島武二が、週に一度デッサンの指導をしており、東京美術学校をめざす画学生たちの予備校的な存在でもあった。入学を特別に許可されたのは、藤村の威光だろうか。藤村は「白樺」同人で二科会創立会員でもある有島生馬と盟友と言えるほどの仲であり、有島の絵の師匠は藤島武二である。藤村が二人の子息を画学校に通わせたいきさつが1925(大正14)年の読売新聞に記されている。岡田と鶏二の出合いから5年後のことである。

「父と子」 ◇島崎藤村氏の次男鶏二君と翁助君
 藤村氏の長男は御存じの通り故郷信州にあって百姓の生活にいそしんでゐる。次男鶏二(十九)、三男翁助(十八)両君は川端画学校にあって洋晝家として立つ為めの階段を踏みつゝある。◇藤村氏はいふ「私共の血の中には、何かさういふ方向に向くやうなものが流れてゐる気がする。私の子供時代にも私の父は、私を晝家にしやうと考へてゐたやうだ。さうして私自身の中のもさういふ素質の一部分の存在が潜んでゐるやうな気がする。従って子供の中にもさういふ芽があるのではないかといふ気がして晝の方に向けてみた。これは、長男の場合にもあてはまることで、私の気持の中に百姓になってもいゝといふような一部があることから子供の中にもその方に進んでいゝといふやうな気持があってそれに向ってゐるといふ風に......◇私は家庭にあっては父であり、母であり、又或る時は晝の先生でもあることになる。尤も私は晝は好きではあるが全くの素人で勿論絵筆も持たないが、子供の晝を見るといふこと位はする。◇鶏二の方は後期印象派風のもので学校では藤島武二氏に、その以外には有島生馬氏に時折晝を見て貰うやうにしてゐる。たゞなるべく多く修行を経てからといふ気持からまだ展覧会へは出品させていない」

  岡田19歳、鶏二14歳、多少の年齢差はあるが、画学校で出合った二人はこれから20年間、もっとも親しい画友として交友を重ねることとなる。このころ鶏二は乃木坂のアパートに住んで画学校と有島邸に通い、夕食時だけ飯倉片町の家に帰るという生活をしていた。岡田はその夕食によばれ、風呂に入ることもしばしばで、風呂には季に応じて菖蒲や柚子などが浮いていたという。また有島邸へ同行することともなり、自ずと有島の門下生となった。
 岡田が画学校に通い始めて間もない7月には鶏二と大島スケッチ旅行に出かけている。岡田と鶏二、そして古山潤の三人である。まだ15歳にも届かない鶏二を案じてか、旅に先だって藤村は岡田に宛てて手紙を書き、岡田は返書を出している。(この2通の書簡は馬籠の藤村記念館に残されている)

古山、岡田 両君へ
 鶏二のことにつき御心配下され難有く存じます。同人はまだ何も知りませんから少し旅のお供でもさせて眼をあけてやりたいと思ひます。私は御両君が大島へ御出掛けなると聞ゝ、その御供ならばと思って鶏二を許しました。
 私の家には鶏二の外に兄弟二人、妹一人の子供があります。その兄妹に対してもあまり長く鶏二一人に旅をさせることを遠慮したいと思ひます。右の次第ですから鶏二には往復船賃の外に凡そ半月分の食費として十円だけ持参致させます。大島着後半月もたちましたら好き日和を見て鶏二だけ先へ船に乗せて帰して下さるやう願ひます。
 六月三十日 麻布飯倉片町三十三 島崎藤村
岡田謙三の返信
 御尊公の大切なる御子息を、鶏二君のおのぞみに依り大島へお連れするのですから心配ですが鶏二君は大そう無邪気で又いゝ人ですから十分気を付けてお世話致しますから御安心下さい。御尊公から僕達にお信頼するのも嬉しく感じます。
北品川一本木三三九 岡田謙三拝  鶏二君のお父上へ
 
 画学校での二人の交友はあまり長いものではなかった。翌年、岡田が東京美術学校に進んだためである。念願の美術学校進学を果たしたものの、入学して2年目、1923年9月の関東大震災の後、岡田は同窓の高野三三男にパリ留学の誘いを受けたのを機に美術学校を退学する。美術学校は被災者の避難所となり、授業再開のめどもなかった。また美術学校で4年間学ぶ資金があるならそれを留学資金に充てる方が賢明、という持論を持つ有島生馬の勧めがあるいはあったかもしれない。岡田が美術学校に入学した年に川端画学校で学び、鶏二を通じて有島の薫陶も受けていた海老原喜之助がそれを実践していた。そして翌23年正月、岡田はフランスに渡る。留学はあしかけ4年に及ぶが、岡田は当地で藤田嗣治に私淑して藤田グループと称される海老原喜之助、板東敏雄、岡鹿之助、高野三三男、高崎剛らと、時期は異なるが共に過ごして27年9月までパリで過ごす。
 岡田の留学中に川端画学校での勉強を終えた鶏二は、半農半画家として立つため岡田の帰国前年5月に、馬籠で農夫として働く兄・楠雄の元に赴いていた。28年の二科展で初入選を果たし、29年には藤村の意向を受けてフランスに渡る。藤村が現代日本文学全集第16編として刊行された『島崎藤村集』(改造社)の印税2万円を4人の子供に均等に分配し、鶏二に留学を勧めたのである。作品『嵐』にその顛末を書いている。

 「私は、一所に帰って来た次郎と末子を、自分の側へ呼んだ。銀行へ預けた金の証書を、そこへ取り出して見せた。
「次郎ちゃん、御覧。これはもうお前達のものだ。どうこれを役に立てようと、お前達の勝手だ。これだけあったら、ちょっと仏蘭西あたりへ行って見て来ることも出来ようぜ。まあ、一度は世界を見て来るがいゝ。このお金はそういふことに使うがいゝ。それまではお父さんの方に預かって置いてあげる」

 フランスでの鶏二は、当初パリ郊外のムードンで過ごし、やがてパリのリュー・ジュトーの7階のアトリエに移る。この頃、川端画学校の同窓で後に二科会理事長を務める吉井淳二が渡仏して鶏二と行動を共にしている。
「...しばらくムードンにいて、そこで、風景の小品などをいくらかかいている。パリに移ってからは、アトリエの窓から、パリの屋根をかいたものが、一、二あるのみで、主として、人物ばかりりを描いていた。それも、彼の女友達のミルトー嬢をかいたものばかりで、私の知る限りでは、その他のものとしては帰国前、ミルトーの友達のアルゼリヤの血の混じった女をかいた『黒衣の女』や『ターバン』等二、三のものがある位のものであろう。島崎は気に入ると、そればかりに執心するという妙な癖があって、スパゲッチが好きになって、随分と伊多利めしやにつき合わされたものである...」(美術手帖 第75号)

 鶏二の留学は2年余りで、帰朝後は馬籠に赴くことはなく、乃木坂のアパートに住んで画家としての歩みを始める。同じアパートに吉井淳二や、まだ無名の滝口修三がいた。先の美術手帖に吉井が「...自由ケ丘の兄の家で、懊々として、楽しまぬ日々を送っていた岡田謙三もよく我々に加わった。他人の仕事には無頓着の彼も、この時代、かなり岡田の影響を受けていた...」と書いている。
 また日動画廊の機関誌『繪』の海老原君の思い出とする文の一節のは「…岡田謙三君が日動画廊で個展をしているときのことであるが、、海老原君が近くに家を建てることになったとよろこんでいるので、よい友達程あまり近くにいない方がいいぞと言ったが、やっぱりその通りのようであった…」としている。
 鶏二はそこで3年ほど過ごし、1934年頃、敏子夫人と麻布龍土町に家庭を持った。いわば同棲の形での新生活だったようで、『新潮日本文学アルバム 島崎藤村』によると、藤村が二人の結婚を認めるのは麹町区下六番町に新居の建築を始めた36年のことである。翌年1月に新居が完成するが、このころ鶏二は中野の有島邸の画室を買い受けてそこに移っていた。
「藤村さんの新居が麹町にできたころから、鶏二さんに誘われて毎年の大晦日を藤村さんのお宅で過ごすことが常になりました。藤村さんの新居ができて半年ほど後には、隣に藤田嗣治さんお家ができて、藤田さんが家を空けるときなど君代さんに誘われて泊ることもしばしばでした。藤田さんの家の二階から藤村さんの家の縁側が見えるのですが、朝などに藤村さんがコップを手に椅子に座ってうがいをして、傍らの壷に水を吐く姿などが見えました。君代さんにカーテンをつけたらどう、と言ったようなこともありました」
 二科会での歩みは、岡田がきみ夫人と結婚した35年に二人そろって二科会会友に推挙され、37年には岡田、鶏二、田村孝之介、北川民二の4人が会員推挙となる。新聞や美術誌等の二科展評では長老たちの名に混じって二人の名がしばしば挙げられ、二科の若手両輪として注目されるようになる。また39年2月には神戸の六甲ハウスで島崎鶏二・岡田謙三洋画展を開催している。
 二科会で発表する一方、二人はこの年に始まった黒門会の主要メンバーでもあった。「ひとつ有島先生を囲む旧門下生の会を日動のキモ入りでやってくれないかと相談されたのがこの会の始まり」(長谷川仁『洋画商』日動出版)というグループ展で、麹町の有島邸の黒門に因んで命名された会である。岡田、鶏二のほか海老原喜之助、児島善三郎、小山敬三、東郷青児、中川紀元、硲伊之助、林倭衛、野口彌太郎、吉井淳二といった顔ぶれである。展覧会は第4回展まで日動画廊で開催され、戦中に中断となったまま、戦後は会員の親睦会として長く存続した。
 太平洋戦争開戦のころ、鶏二は久我山に移り住んでいた。岡田夫妻がそこを訪ねると、鶏二は集めた李朝や柿右衛門の陶器の自慢話に花を咲かせ、水墨画に熱を入れるようにもなっていた。時に広い庭で農仕事をしたり、庭石や庭木の手入れに打ちこむ姿もあった。絵は花や夫人像などを描き、戦争記録画とは無縁のところにいた。
 一方の岡田は戦争記録画を3点描いた。
「昨日の理事会で今度君を陸美の会員に推挙したのが一同の賛意を得て正式に会員に決定しました。何れ協会から通知が行きますが至急内報します。御喜び申上げます。留守中デコチャン来てくれた由御礼申上げます。......」(藤田嗣治 1944年5月)
 藤田の口添えで陸軍美術協会の会員となって記録画を描くことになったのだった。藤田が自らの作品の進捗状況を知らせ、岡田のそれを問う10通ほどの葉書が残されている。
 戦争とは無縁と見えた鶏二も、時勢に押されてか、知り合いの軍人に頼んでマカッサル(インドネシア)研究所の嘱託となった。南方占領地域の海軍軍政地区に地域の統治・開発に必要な基本的事項を調査研究することを目的として43年に創設された機関である。先の美術手帖で吉井淳二は「マカッサルに行こうとまで思わなかったようであるが、命に従いついに行く決心をした。......我々としてもまさか数ヵ月後にあのような不幸が彼を待ち構えていようとは夢にも思わなかったので、壮行会などをして、遂に再び帰ることのなかった南の空へと彼を旅立たせてしまったのである......」と記している。
 49年10月10日、鶏二はジャワやバリ島などをスケッチして回り、内地へ帰る最終便の海軍水上機に搭乗していた。水上機が給油のためタラカン島に着水しようというとき、鶏二は一人荷物を取りに搭乗室を離れた。このとき、嵐の後の高波と水上機の下降する力が衝突して機体が真二つに折れ、席を離れていた鶏二ひとりが犠牲になったと伝えられる。享年38
「あるとき、鶏二さんが私の家の門のところで"おーい岡田君、とうとう買ったぞ"と大きな声で言って、玄関までおどけた姿でアコーデオンを弾きながらやって来たというようなことがありました。神戸の二人展の時には美味しいステーキ屋を見つけたから行こうと誘われて、岡田がほんとに旨いというと、会期中そこばかり。また鶏二さんは無口というより、訥弁なのに話術に長けていて、他愛のない話でもちょっと尾ひれをつけて話すので落語を聞いているようで面白かった。そんな鶏二さんが亡くなったと敏子さんから知らされたとき、最初は信じられませんでした。岡田は晩年まで事あるごとに鶏二さんの名を口にしていました。私も藤田さん鶏二さんが最も忘れられない方でした」
 きみ夫人にとって、岡田と初対面の日が鶏二と初対面の日でもあった。1932年秋、二科会会場で岡田の絵に見入る当時の加園きみは、叔父で日展の彫刻作家・安藤照(初代・忠犬ハチ公を制作)のアトリエで見知った画家に声をかけられた。関心があるなら岡田を紹介しようと言うのである。迷った末に依頼して、約束の日に上野精養軒に出向くとそこに待っていたのが岡田と鶏二だった。(文責:北湯口 孝夫)
 岡田謙三夫妻と島崎鶏二トリ二
岡田謙三夫妻と鶏二(右)
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