画家・岡田謙三の世界
                   Kenzo OKADA
 岡田謙三と良き仲間たち

 藤田嗣治 (レオナール・フジタ)1886~1968

                      パリ●藤田グループの気鋭画家たち
 岡田謙三が高野三三男、岡上りう、高崎剛とパリに向けて箱根丸で横浜港を出航したのは1924(大正13)年1月3日のことだった。2月26日にパリに入り、その半月ほど後の3月3日、岡田は兄・正三にあてた手紙にこう記した。
「...毎日金計りつかって生きている様な気がしてならない。随分方々歩き廻った。藤田氏にすっかり仲良しになってしまった...」
 この2日後には「下宿探しを藤田氏にもたのんである」としている。藤田氏はいうまでもなくパリ美術界の寵児となっていた藤田嗣治である。
 岡田を藤田にひき合わせたのは、おそらく海老原喜之助だったであろう。海老原は岡田らより半年ほど先にパリに留学しており、東京の川端画学校では岡田と同様、島崎藤村の次男・鶏二と親交があった。
 評伝『海老原喜之助』(大沢健一著 日動出版)に<エビの饒舌には異聞も多い。大正十二年、高野三三男が初めてパリに着いた日、わずか数日早くパリに着いたエビから、パリの先輩としてのお話を八時間ぶっ通しにブタれたという伝説が残っている>とある。
 わずか数日早くパリに着いたエビという記述は置いて、このころ海老原は藤田のアトリエの隣に自らのアトリエを持ち、ただ一人、藤田のアトリエへの出入りを許される画家でもあった。一方、高野三三男は東京美術学校教授・岡田三郎助から藤田への紹介状を得ていたが、それを携えて藤田を訪ねたとき異様とも見える藤田の風体を遠目に、恐れをなして引き返したと述懐している。藤田と言葉を交わしたのはそれからしばらく後のあるパーティーの席だったというから、紹介状を持たない岡田を藤田に紹介したのは海老原だったと推定はおそらく的外れではない。ともあれ、これを機に岡田と藤田との終生にわたる交友が始まる。岡田22歳、藤田38歳の春である。
 パリで藤田をとりまく画家たちは「藤田グループ」と称された。当時、パリにあって日仏間の文化交流に尽力して「バロン・サツマ」といわれた薩摩治郎八は『せ・し・ぼん』(バロン・サツマの会刊)に書いている。
<高野、高崎剛、そして海老原喜之助、岡鹿之助、板東敏雄、鈴木龍一ら、藤田グループと称された当時の画家たちがパリで藤田派を実現したと仮定したら、パリ画壇の一角に日本画壇が出現していただろう>
 ここに岡田謙三の名がないのは、足かけ四年に及ぶ岡田の留学中、三年目の秋に描いたサロン・ドートンヌ入選作『ボートのある海浜風景』が唯一の発表作品であったため、画家としての岡田は薩摩の眼中になかったのかとも思われる。
 パリ」での岡田の生活は貧苦との闘いの日でもあった。
「近頃づーっと一人で毎日居る。日本人と逢ふのはいやだ。逢へば無駄が出る。それは益々私を迷わせるばかりです。だが、すぐ近くに居る藤田氏の處へは時々訪問する...専心フランス語をやらなければならないのだが、それを落着いて出来ない。金のことが心配だからだ」
 岡田への家からの送金は岡田きみ夫人によると「兄の正三さんの給料五十円ほどがそのまま毎月送られていた」ようである。その兄と家族に宛てたパリからの手紙が40数通残されているが、500フラン前後、多いときで800フランを受け取ったという記述が多い。
<...兄が毎月きちんと送ってくれた月給は、当時のフランに換算して二四〇フランになり、それがそのまま弟謙三のパリで受け取る「月給」になっていた。しかし、もともと非常識で、金の勘定にもうとい彼は、家賃が一二〇円もするホテルに居続け、国元からの送金は、毎月十日も持つことがない。でたらめな貧乏生活がパリを去る日まで続くのだが...>(三宅正太郎 岡田謙三・流転の半生 美術手帖 昭和三十四年一月号)
 ホテル生活はオテル・ダンマークとオテル・ミディで合わせて2年余を過ごしている。食事は当初外食ですませていたようだが、ドランブルの藤田のアトリエもその食堂? のひとつだった。そこへ入り浸っていたせいか、ある日、岡田は一通の手紙を受け取った。
<当時、若い連中が毎日押しかけて来て、オヤヂさん何にか食べるものはないか等とやって来る。丁度二つ物置小屋を持ってた時、一方は仕事場、一方は食事場にしていたので、その後者に皆を押し込んで何にかを食べさせ、皆んなはトランプ等して遊んでる。めんどうだから、私一人で皆跡かたづけして洗って仕舞う。私が下男みたいなもの。皆んなは、なまけものでこのくりかへしが烈しいので、私はとうとう一日思い切って、勅語みたいな堅い変んな文章の手紙を十本近く書いて皆に郵便で出した。
「抑(そもそも)顧みるに、我既に白髪の老齢、余生何許も無し、光陰矢の如く、今其の時失すれば、何れの日か我が意を達すべけん哉、然るに業未だ半ばに達せず、努力奮勉の時は今なり、諸氏願はくば我を煩す勿れ。以後我が門を叩く勿れ、諸氏乞ふ我をしてこの罪を容し給えへ。」こんな風な文だった。
 それが、この岡田謙三や海老原喜之助やの連中に届いて、皆んなは門前払いされたとてその踵を返へし遠ざかってくれて私は助かった、しかし、何日の間にか又寄りを戻して集まって来た。私が負けた>(夏堀全弘著 藤田嗣治芸術試論 藤田嗣治直話)
 こんな出来事を経て、パリ生活2年目を過ぎた頃には自炊が主となったようである。
「...フランスの相場が悪いので随分物価が上がりました。醤油を買って来て米をたいて、肉とネギをいためて食べてゐます。パンよりか腹が長くもちます。二食と何時の間にか定められてゐます。朝と夕です。米とアルコール(にものにつかふ)丈は少し買いだめをしておいて金がなくなっても過ごせる様にしてゐます」1926年5月)
 藤田をオヤヂさんといって慕う藤田グループの若い画家たちは、一度は出入り禁止をされたこのアトリエで、またロトンドや、ドーム、ル・セレクトといったカフェで、藤田の言動やタフな仕事ぶりに触発され、啓発されていた。カフェでどれほど遅くまで過ごしても、藤田はアトリエに戻るとその分を取り戻すようにカンバスに向かうことを皆知っていた。
また<...美術学校でうけた教育をみんな捨てろ、思い切って捨てろ。人間なかなか思い切るということは出来るものじゃないが、ほんとうに思い切れ。過去を捨てるんだ。...そういうけど、君には捨てる過去なんてあらしないね>(三宅正太郎 「岡鹿之助」『絵と随筆 真珠』第16号>という薫陶はみなに共通するものだった
 ホテル住まいのあと、戸田海笛の下宿に寄寓して過ごした岡田は1927(昭和2)年9月にパリを去る。戸田は藤田と並ぶパリの名物男とされた画家で、<豪放闊達で人を人と思わないところが實に愉快である>と藤田が評している。高野三三男と岡上りうは昭和1931年にパリで結婚、高崎剛は肺結核に侵され1932年9月8日、肺結核により還らぬ人となった。
 藤田は1933(昭和8)年11月に妻マドレーヌ・ルクーを伴って帰国。次姉康子の嫁ぎ先・中村緑野宅に寄寓、翌年早々同氏宅邸内の裏の畑にメキシコ風のバンガロを建てて、東京での生活、制作を始める。
 
 ●東京 深まる藤田との交友
 藤田が帰国したころ、岡田は秋の二科展の会期中、知人を介して知りあった加園きみに強い思いを抱いていた。
 1933(昭和8)年10月11日、「昨日、彼女と海を見た。落日を見て、朝日を想ふ。これが一生か」
11月20日「喜美氏を愛す。誠実と愛情、真心をこめて」
12月5日「いよいよ彼女に約束をする。自分は十四日の木曜日にそれを云ふ。四葉は何を示すものだろう。彼女は自分を信じて呉れた」
 この日の日記に押し花のようにその四葉のクローバーが挟まれている。
 これからなお熱愛の期間を経て、二人が結婚するのは1935(昭和10)年5月10日のことである。二人の新居建築に際して、藤田の音頭で画会が開かれた。岡田の作品を内々に展示して、呼びかけた人たちに観てもらい、作品の購入を依頼するのである。島崎藤村、有島生馬、石井伯亭、東郷青児といった人たちがそれに応じたという。きみ夫人によると、損保ジャパン・東郷青児祈念美術館に収蔵されている岡田の作品はその折りのものだろうという。
 翌1936年12月には藤田が堀内君代と結婚、翌年7月に東京市麹町区下6番町13番地に住居・アトリエを新築する。島崎藤村邸の隣である。前妻マドレーヌは1935年に一時帰国、36年6月に再来日するが、急病死した。君代夫人との結婚はマドレーヌの他界からわずか半年後のことだが、交際は1934年には始まっていた。岡田きみ夫人の言によると「岡田の親戚がやっていた長谷川という料亭で働いていた君代さんを見初めた」のだという。
 藤田の年譜によるとこの年の11月から12月にかけてマドレーヌと北京、奉天、新京などを旅行とあるが、それより先、8月から9月にかけて君代を伴って奉天やハルピンを回っている。
「オトトイ北陵、昨日ペースーチャン、今日ショートロ見物の筈で祝出、佐藤両君案内してくれて君代さんも驚いてる。大変な人出だ。群集の構図も沢山見出した。成程コジキの親玉謙ちゃんにヨロシク。往きはマーチョー、帰りはワンチョウだった。昨夜ニュースで福田、須藤両君と俺れの大写し等出て審査振りで、見せたいようだった。今日はアギザで假ぬいだ。中々忙しいが毎夜映画等見に行ってるよ。帰っていろいろ話しする」
 これは1934(昭和9)年8月16日消印、岡田夫妻宛、満州奉天 大和ホテル 藤田嗣治 君代と記されたハガキである。こうしたハガキが数通ある。
 藤田はこの年に二科会会員となり、岡田は結婚した昭和10年に島崎鶏二とともに二科会会友、12年に会員となって、二人は二科のホープとして頭角を現していく。
 時代が満州事変,日華事変と戦時色を濃くするなか、1939(昭和14)年4月に藤田は君代夫人を伴って8年ぶりにパリに渡る。それから半年も経ない9月に第二次世界大戦が勃発、ドイツ軍侵攻によるパリ陥落寸前の40年5月に藤田夫妻は高野三三男夫妻、猪熊弦一郎らと共にパリを脱出して7月に無事帰国する。パリ脱出前後の様子は『地を泳ぐ』で藤田が克明に書いている。
 このころから岡田夫妻と藤田夫妻は交友をいっそう深めていく。ともに夫婦間の年齢差があり、子もない。岡田が結婚した年の暮れ、島崎鶏二夫人・敏子からきみ夫人宛の手紙に妊娠を祝う文言があるが、その後、岡田謙三夫妻は子に恵まれることはなかった。
 藤田が戦争記録画のために戦地に派遣されて家を留守にする機会が増えると、きみ夫人は麹町の家に残された君代夫人をしばしば訪ね、泊まることも稀ではなかった。また藤田は記録画の進捗状況を知らせ、また岡田の仕事ぶりを問うハガキをひんぱんに寄せていた。互いの家を訪問することもすくなくない。たとえば1941(昭和15)年前半の日記を見ると
 1月14「Hを描き始めたらおやぢ夫婦、サワダら来て一日つぶされた。海老原大連に病み重態にて海老の細君は大連に発つ事に成る。おやぢがゐなくなったら淋しい事だろうと考へる。だが後二十年は大丈夫。思へば親しき人の少なさよ。レンブラントの晩年そも如何なる心境なりや」。Hは同年8月に完成する作品『群集』である。
 このあとオヤヂの家に行った、オヤヂ夫婦来る、といった記述が15日、22日、2月9日、10日、4月7日、10日、16日、28日、5月5日、19日といった具合である。
 島崎藤村が他界した8月22日の翌日には「島崎藤村氏がなくなられた。一人で大磯に行き、ゐコツの前に御禮、お悔やみと自分の決意を述べ、心から頭を下げた。奥さんは涙を流して満足をしてなくなられた事を告げた。鶏二も最後の様子を話した。...家にかへり、夕刻一仕事をすませて藤村氏のことを考へ、淋しさを感じた。人の世のはかなきもの」と記している。
 このころの藤田から岡田夫妻宛の少なからぬ書簡を紹介する紙幅はないが、終戦後、藤田がアメリカに発つまで、書簡と日記に記される画家の名としては藤田が抜きん出ている。
●二人のニューヨーク
 終戦を迎えた疎開先で、岡田は制作活動の場をニューヨークに移す決意を固めていた。一方の藤田はパリ行きの準備をし、フランス領事館に査証手続きをしたが、放置されたまま許可されることはなかった。やむなくアメリカ行きに転じた藤田は、フランク・E・シャーマンの尽力で渡航手続きを難なく終える。ブルックリン美術学校教授としての招聘である。シャーマンはGHQ所属出版・印刷担当の軍人で、藤田作品の熱烈なファンでもあった。
 1949(昭和24)年3月10日に「絵かきは絵だけを描いてください」の言葉を残して羽田を発つ藤田を見送ったのは岡田と土門拳、川端實、シャーマンだった。手続きの都合で5月に渡米することになる君代夫人は近藤浩一郎宅に一時寄寓することとなる。
「君代さんは近藤さんのお宅の食事が口にあわないようなことを言っていましたが、そのせいか私の家に泊まることもしばしばありました」ときみ夫人はいう。
(写真は米国に向け羽田を発つ藤田)
 藤田が渡米してほどなく、矢継ぎ早に3通の手紙が届いた。いずれも4千字あまりの長文である。君代夫人を待ちながらニューヨークの様子を克明に知らせる手紙、岡田の身元引受人となるソウル・シャーリーに会ってその心境や状況を知らせる手紙、藤田のパリ行きを阻んだ人を類推特定する手紙などである。
 岡田夫妻はフランク・E・シャーマンやソウル・シャーリーの尽力の結果、翌昭和25年8月にニューヨークに向かう。藤田とは「共にニューヨークで新機軸を開こう」と約しての渡米だったが、この年の一月に藤田の渡仏の許可が下付されて、藤田は急遽パリに渡っていた。その背後に国吉康夫が藤田を軍部協力者、軍国主義者と公言し「アート・スチューデント・リーグの学生たちを煽動してコモール画廊での藤田の個展会場にデモをかけたそうです」(きみ夫人)こともあって、岡田に連絡する暇もなくニューヨークをあとにした。岡田の日記帳に藤田の渡仏を報ずる新聞の切抜きがはさまれている。
 以来、両夫妻の交友は手紙のやりとりになるが、岡田夫妻がパリで藤田夫妻と再会を果たすのは1962(昭和37)年のことである。岡田にとっては35年ぶりのパリで、旅行の合間に藤田や堀文子、堂本尚郎らを訪ねる旅でもある。4月17日にパリに着き、翌日は竹谷富士雄夫妻に会い、19日はカフェ・ロトンドのテラスで堀文子と話し、その後、掘が下宿するパリ郊外の貴族の館を訪ねるなどして、25日に雨の中タクシーで藤田を訪ねる。午前11時頃、パリ郊外ル・パークルの農家を改造した藤田の家についたころには雨も上がっていた。
「...十二年ぶり、だき合って喜び、きれいな家を見、カレーライス皆で作って食べたり、話が尽きない。五時前のタクシーで別れを告げ...」
 それから4年後の1966(昭和11)年末、膀胱炎でパリのクリニックに入院した藤田は、その後入退院を繰りかえしていた。その様子を知らされた岡田夫妻は見舞いに向かうことになる。翌67年3月に届いた手紙に体調不調がほのめかされていた。「レオナルド マリーアンジ・二人のフランス人より」とされたその手紙は、岡田が送った日本橋・高島屋での岡田の回顧展図録に見る作品への賞賛を記したもので、手紙の末尾に入院の予定が記されていた。
「...実ハ我等二人60年に一度zurichスイスの病院で全身検査して貰った処へ又、(五年たったらいらっしゃいとあったが)もう67年だから又二人で十日か二週間位入院(人間ドック)してチンチンの先からお尻の穴迄見て貰うちもり。四月一日から十五日すぎ迄ハ村は留守の筈。五月からスペインの帰りに村へ遊びに来い。余り日本の方計り行かずと、もちとヨーロッパの方へも何うぞ ドーゾ...」(3月20日)
 岡田夫妻は5月7日にスペイン・マドリッドに着き、ニューヨークでともに過ごした画家で故国に戻っていたホセ・グレロを訪ねた。20日間ほどグレロと国内を旅行し。29日にスイス・チューリヒの州立カントン・ホスピタルに藤田を訪ねた。
「...やっと病室を見つけ戸が開いて君代さんがデコにだき付き鳴き出した。オヤヂは年をとりポーっとしてたのに驚いたが、しばらく話しして皆で病院の庭の花を見たりし、タクシーでホテルのゴーシャさに驚く...」
 以後、岡田夫妻は6月3日まで毎日欠かさず藤田を見舞う。藤田は外出を許されているのか、街で買物や散歩、食事をして過ごして、別れの3日、
「...近處の食料屋でオヤヂに肉類買い、タクシーで病院に行き、一時間ばかり話し、四人で三時頃、婦人科の医者に行き、待たせたタクシーで丘の上のホテルの庭のレストランでビール、のみもののみ、一時過ごして近くだったホテル・ドルダーに戻り夕食四人でし、九時にゲンカン迄送りサヨナラする...」
 ホテルの玄関でタクシーに乗りこんだ夫妻が藤田を見ると、藤田は背を向けたまま振り返ることはなかったという。
「八時頃起き朝食し、ホテルカンジョウ400ドルすませテラスなどで外を眺め、十一時頃迄タクシー待ち、オヤヂに置手紙して飛行場に行く」(6月4日) 
 岡田は藤田から1枚の素描を贈られた。潔癖な岡田は固く辞退したが、藤田の「これは是非とも君に持ってほしい」という言葉に、それを受けた。ランス大聖堂の壁画に描いた聖母マリアの下絵になったものである。きみ夫人に見せていいただいとことのあるそれは、夫人他界の前後に見当たらなくなっていた。
 翌年、藤田の訃報に接したとき岡田夫妻すぐ渡仏の手配を進めたが、中途で断念した。きみ夫人の「君代さんを煩わせたくない」という思いがあった。藤田の没後1年、1月8日に寄せられた君代夫人の手紙には痛切な言葉が連なっていた。
「...私も毎日涙々で、サヨナラサヨナラを毎日いい通しでした。岡田さんにも、しきりに、電話してサヨナラ云いたいと何度も云ってましたが、電話調べることも、看護婦も忙しいのか、思う様にならず、私には、おれが死んだら、おれの髪の毛切って持って居てくれといはれて、ハイいただきますといって...一週間もまだその前から、私は<かくご>して居たので、私の髪の毛も持って行ってもらおうと、髪洗ひして、ガーゼの布に包んで、すっかり用意はしておきましたので、それでは私のも持って行って下さいといったら、涙を流して、手を握りあって、髪の毛を抱いてくれました...」
 これを含め、君代夫人の長文の手紙が3通残されている。藤田への追慕、岡田夫妻への感謝、そして君代夫人が最晩年まで藤田の画集刊行や著作権について、頑ななまでの姿勢を貫いたことの根拠を示唆するかのような手紙である。
 若くして逝った島崎鶏二、パリで私淑して後、終生の友、先達として仰いだ藤田嗣治、その交友は岡田謙三夫妻のかけがえのない財産だった。(文責:北湯口 孝夫)
       
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 岡田夫妻がパリに藤田夫妻を訪ねた折、リビングルームで。(1962年)
 
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