画家・岡田謙三の世界
 Kenzo OKADA
 岡田謙三とよき仲間たち 海老原喜之助
                                                 
                                          
海老原喜之助(1904~1970)
パリの藤田嗣治グループ
「抑(そもそも)顧みるに、我既に白髪の老齢、余生何許(いくばく)も無し、光陰矢の如く、今其の時失すれば、何れの日か我が意を達すべけん哉、然るに業未だ半ばに達せず、努力勤勉の時は今なり,諸氏願はくば我を煩わす勿れ。諸氏乞ふ我をしてこの罪を許し給へ」
 こんな風な文だった。それがこの岡田謙三や海老原喜之助やの連中に届いて、皆んなは門前払いをされたとて其の踵を返えし遠ざかってくれて私は助かった。しかし何日の間にか又よりを戻して集まって来た。私が負けた。(近藤央人著「藤田嗣治 異邦人の生涯」より)

 1920年代半ば、エコール・ド・パリ全盛期のパリで、藤田嗣治をオヤジさんと呼んで慕い、集った若い画家たちに宛てた禁足令の文面である。物置小屋を二つ持つ藤田はその一つを仕事場に、他を食事場にしていた。そこが若い画家たちの社交場のようになり、求められるままに食事を振る舞い、若者たちがトランプなどに興ずる合間に、後片付けをする。それが日常茶飯となって、10人ほどに書いた手紙だった。だがターゲットは岡田と海老原だったようである。
 岡田は後年、藤田の作品集への寄せ書きに「これはおやじに初めて頭をポカンとやられたショックは今でも忘れないことです。この小便たれ小僧ボヤボヤしているなと云う訳なのでした」と記している。
 その10人ほどという画家たちは藤田グループとも言われ、藤田から技術的なことだけではなく、画家としての有り様や絵画精神といったものを学んでいた。当時、藤田と親交のあった薩摩治郎八は「高野(三三男)、高崎剛、そして海老原喜之助、岡鹿之助、板東敏雄、鈴木龍一ら、藤田グループと称された当時の画家たちがパリで藤田派を実現したと仮定したら、パリ画壇の一角に日本画壇が出現していただろう」(薩摩治郎八著「せ・し・ぼん」)と評している。
 神田の裕福な木綿問屋の三代目に生まれた薩摩は、1920年代初頭にパリに渡り、芸術や文化の後援に湯水のように私財を投じて「バロン薩摩」と呼ばれたパリの名士であり、日本人画家たちのパトロン的存在でもあった。
 岡田と海老原はともにパリ留学中に知り合った仲である。1922年、鹿児島の志布志中学を卒業した海老原は、同窓生で後に二科会理事長となる吉井淳二と上京、川端画学校で学ぶ一方、有島生馬家の出入り商人だった親戚に伴われて有島家の門をたたいた。有島の邸宅は麹町・下六番町にあったが、胸を病んでいた有島は鎌倉・稲村ケ崎の旧新渡戸稲造邸で静養中だった。海老原18歳、有島39歳のころである。有島門下となった海老原は島崎鶏二と新渡戸邸に泊ったりもしている。
 翌23年、海老原は「どうだ。美術学校に5年間通う時間と費用があるならば、本場のフランスで実地に勉強してみたら......」(大沢健一著「海老原喜之助」)という有島の助言を受けて渡仏する。海老原の生家は金銭貸付業や海産物問屋を営む鹿児島でも有数の商家だった。有島が中川紀元に依頼した藤田への紹介状を携えて渡仏したこの年、岡田は東京美術学校を2年で中退、翌24年1月に高野三三男、高崎剛、岡上りうらとパリへ向う。関東大震災の後、美術学校での授業再開の目途もつかない中、パリ留学を思い立った高野に誘われての渡仏だった。
 岡田ら一行4人がパリに着いたその日のことを、先の「海老原喜之助」が記している。
「...海老原の饒舌には異聞も多い。大正12年、高野三三男が初めてパリに着いた日、僅か数日早くパリに着いた海老原から"パリの先輩"としてのお話を八時間ぶっ通しにブタれたという伝説が残っている...」
 高野は美術学校教授・岡田三郎助に書いてもらった藤田への紹介状を携えていた。高野は藤田を訪ねたとき、藤田のあまりに奇異なファッションを遠目にして、恐れをなしてその日は引き返したと述懐している。このころ海老原はモンパルナス街裏のドランブル通5番地に二つのアトリエを持つ藤田に、その一つを借りて居住していた。パリに住んで10ヶ月ほど、1924(大正13)年のことである。
 この年の第17回サロン・ドートンヌ(11月1日~12月14日)では既に藤田は審査員として名を連ね、海老原と高野が初入選している。ほかに日本人作家31人が入選していた。このころには藤田はフェルナンド・バレーと別居して16区のアンリマルタン街に転居し、海老原は14区ブラール通り29番地に移る。岡田は14区ダンヴィル通り4番のオテル・ミディを拠点にし、翌年、戸田海苗のアトリエに寄寓する。
 岡田がドートンヌに初出品、初入選するのは26年のことである。出品が遅れたのは、海老原が岡田の部屋を訪ねると三、四日飲まず食わずで過ごしていたといった生活ぶりや、ホテル代の滞納で追放されて公園で過ごすこともあったような貧窮に拠るところが大きい。岡田への郷里からの仕送りは月にほぼ50円、海老原のそれは岡田の5倍ほどである。さらに饒舌で理論家の海老原の、岡田への一言が岡田を迷宮に追い込んだと伝える小伝がある。
「アメリカに賭けた画家 岡田謙三流転の半生」(美術手帖152号)がそれで
「.旅装をといて半年ほど、グラン・ショミエールの研究所へ通ってデッサンの勉強が、ある日モンパルナスのカフェ・ドームでの海老原喜之助との出会いによって、ふっつり断ち切られてしまうことになるのだ。海老原はとしこそ岡田より二つ若かったが、パリでは一年の先輩だし、二科にも入選していた。彼は持ち前の鹿児島弁で、さかんにまくし立て、"君、絵は描くだけじゃ何にもならんよ。絵はつくるもんだよ"と岡田を煽動した。この海老原の一言が、後年岡田をひとかどの画家に仕上げるいとぐちとなったのである」
「...じゃ、いったい、どうしたらいいんだ。絵をつくれってエビ(海老原)がいった。それ以上は教えてくれやしない。毎日、むしゃくしゃした気持がつづく。岡田自身の告白によれば、まるでもう"絵をつくるという概念のとりこ"になってしまい、挙句の果ては絵筆を投げ出してしまうのだった。もう完全に絵を描く気持がなくなってしまった。まさに自暴自棄の姿である」
 岡田はこの年の3月には藤田のアトリエに出入りを始めており、グラン・ショミエールに通うのは10月になってことである。このころカフェ・ドームで海老原喜之助と出会ったとあるのは誤認と思われる。いずれにせよ足かけ4年に及ぶパリ生活で岡田が残した作品はサロン・ドートンヌ入選作『ボートのある海浜風景』のみ、それも作品を背景にした人物写真が唯一の証である。
 岡田は1927年9月にパリを発つが、海老原はなおパリにとどまり、画壇で名を成すかたわらベルギー女性のアリス・エロディ・ベックと結婚して二児の父となる。パリ滞11年を経た1933年、アリスと離別して、ひと足先に帰った藤田を追うように二児を連れて帰国する。
自由ヶ丘のとなり同士
 海老原が帰国したころ、岡田は島崎鶏二とともに二科会のホープとして注目されていた。海老原は帰国の翌年、二児を鹿児島の実家に預けて単身上京、藤田の推薦紹介による日動画廊での個展を皮切りに活動を始める。海老原は師と仰ぐ有島生馬、藤田嗣治、同郷の吉井淳二や岡田をはじめパリで共に過ごした多くの仲間がいる二科会への入会を望んだが、石井柏亭ら有力会員の反対によってかなわなかったと伝えられる。代わって海老原を迎えたのが二科から分かれた独立美術協会だった。
 1939年4月に日本大学専門部に芸術科(現・芸術学部)が練馬の江古田に設立されると、岡田と海老原はその教授に迎えられる。担当は共に裸婦構成である。長引く日中戦争でカーキ色の軍服が幅をきかせる時代に、芸術科には二人のほかにパリ仕込みの新鮮な感覚を漲らせる美術家たちが多く集った。
 またこの年には有島生馬の門下生による第1回黒門会が開かれる。岡田、海老原をはじめ、児島善三郎、小山敬三、東郷青児、野口彌太郎、吉井淳二ら、麹町の有島邸にあった黒門をくぐった画家たちが結成した会である。展覧会は第4回展で終わり、以後は親睦会として存続した。だが岡田はその第4回展(1943年1月)のあと「黒門会、二度と関係するな。不愉快。かへり(帰り)おやぢ(藤田)。歯を全部とって老人みたい。可愛そうみたい」と日記に記している。不愉快であった事情は記されていない。
 翌1940年7月に海老原は岡田の隣家に転居する。海老原はこれより3年前に離別していたアリスと協議離婚したあと、世田谷区玉川奥沢の家で後に参議院議員となる奥むめおと同棲していたが、友人に紹介されたという稲葉幸子を見初めて結婚することとなる。新居の土地捜しをする海老原に、岡田夫妻は自宅の地続きにある空き地を勧め、そこを見た海老原は即座に決めたのだった。岡田と同じ住所、目黒区自由ヶ丘316番地である。
「岡田謙三君が日動画廊で個展をしているときのことであるが、海老原君が近くに家を建てることになったと喜んでいるので、よい友達ほどあまり近くにいない方がいいぞと言ったが、やっぱりその通りのようであった」と、吉井淳二が日動画廊の機関誌『繒』に書いている。
「行き来が便利になったのはいいけれど、二人が外出する時などいつもお子さんを私たちに預けるの。そのころ長男の盛樹ちゃんは10歳、下の義ちゃんは9歳でいたずら盛り。ときに食事までしてあげて...。岡田は絵を描くときにショパンとかベートーベンのレコードを聞きながら描くことが多いのですが"おーい、今の曲いいな、もう一度聞かせてくれないか"と窓越しに言うの。岡田はその都度、描くのを邪魔されて困っていました」
 きみ夫人は吉井の言うとおりだったと回想している。食料難の時代に、岡田と海老原はそれぞれの庭で野菜栽培に励み、交互に藤田に差し入れなどをしていた。
 敗戦の色濃い1945年5月に岡田夫妻は高野三三男や岩田専太郎らと宮城県に疎開、海老原は鹿児島の実家が戦火にあい、家族が移住していた熊本県葦北郡湯之児(現・水俣市)に同年6月に疎開した。戦後、47年に熊本市本荘町に居を定め、熊本県の美術振興に力を注ぎ始める。岡田は50年に渡米してニューヨークで名を馳せる。
 その後、海老原は63歳の1967年に永住の決意を持って渡仏、パリ市16区ボワ・ル・ヴァンに居を定めた。この年5月31日、岡田夫妻はスイス、チューリヒの病院に入院中の藤田を見舞い、そこで4日間を過ごし、この間に海老原とも会っている。(写真)翌年1月には海老原夫妻が見舞うが、月末29日に藤田は他界した(享年81)。海老原はその臨終をみとり、ランス大聖堂で行われた葬儀では、君代夫人に代わって謝辞を述べている。

戦中の岡田の日記に次のような一節がある。
「Hを描き始めたらオヤヂ夫婦、サワダら来、一日つぶれた。海老原大連に病み、重態にて海老の細君、大連に発つことに成る。オヤヂがゐなくなったら淋しいことだろうと考える。だが後20年は大丈夫。想へば親しき人の少なさよ。レンブラントの晩年はそも如何なる心境なりや......」(1945年1月14日)
 Hは制作中の二科出品作『群集』、海老原の病気は満州旅行の途路、大連の大和ホテルに投宿中に患った肺炎である。この記述から海老原が少なき友の一人であったことが伺える。(文責:北湯口 孝夫)
 
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