画家・ 岡田謙三の世界
 Kenzo OKADA
 岡田謙三とよき仲間たち Betty PARSONS
                                ベティ・パーソンズ
                                  (1900~1982)

             
NY画壇を駆け抜けた二人三脚

 岡田謙三が美術家であり画商でもあるベティ・パーソンズに初めて会ったのは、ニューヨークに住んで1年半ほどを経た1952年4月24日のことだった。当初、描いては潰し、潰しては描くという日々を過ごし、「自分の絵の薄ぺらさにあきれる」「この数日描き続けたものを消してしまいたい」といった模索の日々を過ごした末にようやく方向を見出して、作品が出来始めたころでもあった。ベティーに会う以前の2月28日、岡田は日記に記している。
「......ギャラリーを三ツ四ツ、モダン見て参考になり、自分の方向を益々自確(ママ)した......」
 岡田きみ夫人によると、岡田が自作に確信を抱き始めたこのころ、国吉康雄に画廊の紹介を依頼したがすげなく拒否されていた。
「オレは17歳でアメリカに来て、やっとここまできた。個展をできるようになるまで絵を持って何軒画廊を巡ったたことか。君もそうしたらたらどうだ。それがアメリカでは常識」
 というのが国吉の返答だったという。ともあれ画廊巡りを始めた岡田は4月24日に「...午後からガルリー廻りして最後にベティ・パーソンズに逢って聞いた所が来週に絵を見ると云ふ...」ことになる。その約束が先延ばしになり、5月16日に訪問するという連絡があったあと、当日の約束時間を過ぎてもベティーの来訪はなかった。きみ夫人が電話をすると、ベティーは「急にパリに行くことになり、秋に帰るので改めて連絡をする」という返答だった。岡田は「...来られぬと云ふのでオヤオヤと思ふ」と記している。
 そうしたいきさつを経て、10月初頭にパリから戻ったベティは約束を違えず岡田に電話をして、8日にアトリエを訪れることとなる。
「一日仕事。なんだかやきもきして落着かず。いよいよ夜約束の時より一時間遅れてベティ・パーソンズがデビッドともう一人の女の画家とも来、すっかりウチョウ天で喜び年内のグループショウ、来秋に個展をする約束がとうとう成り立った。ホッとした。デコも大喜び。...いよいよ目的が少しづつ実現に成って来た。デビッドもすっかり喜び、パーソン外とう(外套)など忘れてかへった程だった」
 岡田夫妻にとって記念すべき日であり、渡米前に藤田嗣治に誘われて行った易占で「あなた方は旭日昇るが如くに成功します」とされた、その成功への端緒につく日でもあった。因みに藤田がこの易占で言われたのは「あなたは友達に恵まれない相が強い。友達の裏切りに気をつけなさい」ということだったという。 ベティ・パーソンズ(写真)は1900年1月31日生まれ、岡田より1歳半ほど年上である。ニューヨークの裕福な家庭に育ち、13歳の年に開かれたアーモリー・ショウで観たマティスやピカソ、マルセル・デュシャンの作品に刺激を受けて芸術家を志ざしたと伝えられる。19歳の年にニューヨーク社交界の名士スカイラー・リヴィングストン・パーソンズと結婚した際には運転手つきのロールスロイスで9ヶ月間の新婚旅行をしたという。結婚後二人はパリに移住して新生活を始めるが、3年後に離婚となる。ベティはその後もパリに留まってアカデミー・ド・ラ・グランド・ショミエールで絵画や彫刻を学んだあと、パリの美術家たちと交友を深める。1929年に始まる大恐慌によってベティの資産も減じて33年に帰国を余儀なくされるが、1924年から27年秋にかけての岡田のパリ留学の全期間がベティの滞在期と重なっている。そこで二人の交友があった形跡はない。
 帰国したベティは当初、カリフォルニアで美術教師を勤めるが、36年にニューヨークのミッドタウンで個展を開いたあと作家活動に専念する。40年代初期には美術作品の展示などもするウェークフィールド書店の共同経営者となった。その書店をモーティマー・ブラントが買収した時、現代美術部門の部長に任命されたベティはマーク・ロスコ、アド・ラインハート、セオドア・スタモスといった作家の作品を展示した。そして46年9月にベティ・パーソンンズ画廊を開設、翌年4月にペギー・グッゲンハイムの「今世紀の前衛画廊」の閉鎖に際して経営権を委譲され、ニューヨーク派と言われる画家の多くを抱えることになる。バーネット・ニューマン、フランツ・クライン、ウィレム・デ・クーニングといった作家に加え、ジャクソン・ボロック、ロバート・マザウェル、ハンス・ホフマン、ウィリアム・バジオテス、クリフォード・スチィル、アドルフ・ゴッドリーブなど抽象表現主義のパイオニアたちである。
 岡田のベティ・パーソンズ画廊での初個展が決まったころから、岡田とニューヨーク派の作家たちとの交流が始まる。中でも親しくしていたのが年代の近いマ-ク・ロスコ、バーネット・ニューマン、フランツ・クライン、ジャン・レナール、レオン・スミス、スペイン人画家ホセ・グレロらだった。
 マーク・ロスコはとりわけ親しかったようで、岡田の日記にその名がよく記される。
「...午後からロスコーのアトリエ訪問、後から子供連れて細君来た。子供も面白く、絵も良く成ってゐた...」(1953年6月19日)
「...ロックフェラーセンターで本を見たり、日なたにこしかけて過ごし、附近でロスコーに逢ひ一しょに歩き...」(8月8日)
「...午後ロスコーが突然来る。絵も見せ、気を良くしてゐた...」(8月9日)
 個展会期中の10月13日には「...パーソン、ロスコーらとしゃしんをうつし...かへりロスコーとコーヒーのみ散歩中に、ロスコーアパート見附け其足でロスコーのスタヂオにより近作見る。絵の話も出来て面白かった」とある。(写真は岡田のスタジオでのロスコとパーソンズ)
 ベティ・パーソンズ画廊での作品16点による岡田の個展は1953年10月5日に始まった。
「いよいよ今日がオープニング。...自分は朝パーソンに色々手傅い一たん買物してかへる。午後から片岡夫人来てデコの着物手傅い、タクシーで行き5avでお茶のみ、五時過ぎに行ったら一パイの人でうづまってゐた。多くの人々はうっとりとして、又、嬉々として何とも云へぬアトモスフェアーに包まれ、パーソンはエブリーバーディーハッピーだと言って片手をあげて喜んでゐた...」

 この第1回個展以後、ベティ・パーソンズ画廊での岡田の個展はほぼ隔年で12回開催される。第1回個展では会期中に数点が売れ、会期後に個人のほかニューヨーク近代美術館やメトロポリタン美術館を初めとする美術館を含め、ほぼすべての作品が納まることとなる。55年の第2回展も同様、展示作品25点が会期中に売れるという人気ぶりで岡田はベティ・パーソンズ画廊に不可欠の存在となった。初個展の折り、日記に「ベティからテレフォンでフィラデルフィアの人が千ドルで買った由」という記述がある。千ドルは365換算で36万5千円。日本の大卒平均初任給が9200円のころである。
「何度目かの個展のころ、ベティに作品の値段を上げましょうよと提案したら、"いや、絵が売れなくなったら困る。そうなると若い画家たちの面倒を見られなくなる"と言うの。値段に不満を持つ若い画家たちがほかの画商に引き抜かれることもありましたし、岡田は画廊の台所事情もよく知っていましたから無理も言えず、値段のことをこちらから口にすることはしなくなりました。ベティはちょっと気難しいところがありましたが、偽りのない人でした」というのは、きみ夫人の回想である。
 こうして岡田夫妻とベティは画家と画商という関係を超えて、公私共に繋がりを強めていく。2度目の個展のあと、夫妻とベティは一夏をメーン州オーガスタに近いディアイランドで過ごすことが常となる。ベティの知人で岡田の絵のファンでもある写真家エリオット・ポーター夫妻が海辺の町に持つカントリーハウスと近くの小島がその舞台である。描画のほか、乗馬やバーベキュー、時にポーター夫妻が所有する水上飛行機やボートで島に渡って化石ひろいなどをして過ごす。翌56年,57年にはやはりポーター夫妻が持つサンタフェの山中にある別荘で過ごし、サンタフェに住むジョージア・オキーフを訪ねることも楽しみとしていた。そして58年に岡田夫妻がニューヨーク州レンセラヴィルにアトリエ・別荘を持つと、そこが拠点となる。そのどこにもベティの姿があった。
 日本人がアメリカの市民権を得ることが容易ではない時代に、岡田夫妻が難なくそれを果たしたのもベティの要請と尽力によるものだった。ベティは岡田夫妻の出入国の問題や作品売買に伴う税務処理を円滑にするために市民権の獲得を岡田夫妻に提案した。「子がない私たちにとっては二人だけの事だから」と承諾すると、ベティは夫妻に代わってその手続きに奔走した。ニューヨーク近代美術館、ホイットニー美術館、グッゲンハイム美術館、メトロポリタン美術館の各館長の推薦状を得ることが最も確実、最短の方法だった。各館長はそれを承諾して、夫妻の市民権は難なく獲得された。推薦状の一例は、ホイットニー美術館のロイド・グリッジ館長の著名がある次のような文面である。
「岡田謙三氏は現在、合衆国において最もめざましい活動をしている芸術家の一人である。彼は本国に在住する間、アメリカの芸術に多大な貢献を成した。ホイットニー美術館はこれまで幾度となく氏の作品を展示し、かつ氏の作品を当館で展示し得たことの喜びを多とするものである。アメリカの現代美術をより価値あらしめる氏の市民権獲得の意向を歓迎するものである」
 1957年5月に4館の推薦状が整い、12月に岡田夫妻はアメリカの市民権、グリーンカードを手にした。そして翌58年、夫妻は7年ぶりに故国の土を踏むこととなる。同時に凱旋帰国展ともいえる「岡田謙三展」が朝日新聞社主催によって日本橋高島屋で開催された。このときベティは初めて来日し、東京国立近代美術館で「アメリカの現代美術」をテーマとする講演をし、岡田夫妻と共に日本の各地を旅行している。書家の篠田桃紅、写真家の三木淳らも同行して奈良、京都、伊勢、日光、出羽などを巡る旅だった。
 近代美術館での講演や雑誌『芸術新潮』のインタビューに答えてのベティの言葉は興味深いものがある。
「現在、私のギャラリーでは三二人の芸術家の仕事を扱っています。その中、彫刻家が五人います。それらの仕事を種類別に分けると、五つくらいの傾向に分けられます。即ち、動的な作品、ポロック(去年亡くなった)とか、グレロのような傾向、アクションペインターと呼んでいますが、東洋の書に近いクラインもこの種の画家です。彼は画家のジョー・ルイスとも呼ばれているくらいです。
 もう一つの傾向は構築的なタイプの仕事です。モンドリアンのような幾何学的な傾向のものですが、この種の作品はアメリカでは非常に盛んです。
 その他、情緒的なアブストラクト、多分に詩的な要素の強い作品、岡田謙三やスタモスはこの部類の代表的な作家です。ムード的なもので、はっきり情緒の表れているものと、超現実性の神秘的な作品があります」
「ところで岡田さんの絵の魅力がどこにあるかと言いますと、彼の絵とアメリカ人の絵の違いは文化の違いにあると思います。東洋の文化は、われわれが今までに築きあげてきた文化とは全く異なっています。東洋の文化には、より大きな知識と感性といったものがあります。ユーゲニズムのことは日本に来て初めて聞きました。幽玄とは奥深い静寂、リアリテに基づいて、しかもリアリテを超越した静寂、と聞きましたが、ロスコも同じようなことを仕事について言っています。いかにも東洋的で、面白い言葉だと思います。岡田さんの絵に、」この静寂は確かにあります。主観的なものを画面に明確に定着し、それを彼は崇高な作品にしています。彼の作品の人気のある所以の一つは、他のモダン・アートによく見受けられる苦闘が彼の画面上に感じられないからでしょう。声を高らかに上げて叫ぶより、つぶやきの方が、より強い場合もあるわけです」
 岡田と二人三脚でアメリカの第一期抽象表現主義、続く第二期の熱い抽象の時代を担ったベティ・パーソンズは1982年7月24日に他界した。その翌日、岡田は自由ヶ丘の自宅からいつものように朝の散歩に出かけた。九品仏あたりへ行くのが常である。散歩から帰ってこれもいつものようにコーヒーを手に「今日はヂャックが来る日だな」の言葉を残してアトリエに入った。前日、ヂャックからベティ他界の知らせを受け、そのヂャックがベティ・パーソンズ画廊の事後の相談のために来日することになっていた。
 岡田がアトリエに入って程なく、リビングルームにいたきみ夫人はアトリエの方から響くドスンとした鈍い音を耳にした。何事かと行くと、アトリエの扉の脇で側壁を背に足を投げ出してもたれる岡田の姿があった。救急車で運ばれた病院で岡田は息を引き取った。二人の死去は、ともにその足跡、業績を併せてニューヨーク・タイムズ紙に報じられた。
岡田謙三のタイトルは
           Kenzo Okada,Painter,Dead;Noted for Tender Modernism  となっている.

(文責:北湯口 孝夫)
                  ベティ・パーソンズ ギャラリーの契約作家    このページの上へ

    
 
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岡田謙三夫妻とベティ

ベティ・パーソンズ

マーク・ロスコとベティ
(岡田謙三のスタジオで)

ベティ・パーソンズ