画家・岡田謙三の世界 画家
 Kenzo OKADA
 岡田謙三と良き仲間たち●イサム・ノグチ
 
イ サ ム ・ ノ グ チ
 (1904~1988)
 二人が宿す“モリムラ魂”
 彫刻家、画家、インテリア・デザイナー、そして造園家、作庭家、舞台美術家と、多分野で大きな足跡を印したイサム・ノグチ。そのノグチと岡田謙三との出会いは早く、ノグチが幼稚園児、岡田が小学校二年生のときだった。横浜市にある南高輪幼稚園、同尋常小学校(森村学園の前身)がその場である。創設者森村市左衛門は幕末の動乱期に御用商人として、維新後は外国貿易で財をなして、日本硝子、森村銀行などを一代で築いた資産家である。教育に強い関心を抱いていた森村は南高輪の座敷と1万平米ほどの庭園を開放して、1910(明治43)年4月に幼稚園部を、9月に小学部を創立した。
 1904年11月に野口米次郎、レオニー・ギルモアの私生児としてロサンゼルスに生まれたノグチは、母レオニーと07年に来日、先に帰国していた米次郎と東京小石川久堅町の家に同居した。1910年に6歳で「野口勇」として高輪の幼稚園に入園したとき、幼稚園は創立から半年ほどを経ていたが、ノグチはその第一回生である。その前年に品川の頌栄小学校に入学していた岡田は、南高輪小学校の創立と同時に転入学していた。学園の創立50年史に謙三の長兄泰三が当時の回想記を寄せている。
 小学校は1年生から4年生まで全校で10数人、幼稚園も第1回生はノグチを含めて男子6名、女子4名だった。(写真はその名簿)。
森村が資産にあかせて集めた優れた教師のもと、男女差や年齢差の別ない自由な校風で、幼いノグチにとって森村学園での日々は
 ≪ついに自分を受け入れてくれる人々のなかにいる。という意識がはっきりとあった。ぼくのような混血でも、自分たちとすこしも違わない仲間としてあたたかく迎えてくれた。森村学園ではフリーク扱いされなかった≫幸せな日々であったようだ。
 ≪生徒たちは自分の手で物をつくることを教えられた。私がはじめて彫刻をつくったのはこの幼稚園であるが、それは海の波の形を粘土につくり、青い釉(うわぐすり)をかけたものだった≫
  フリーク(freak)とは英和辞典によると、奇形、変種、珍奇な見せ物、怪物、などとある。2歳から6歳まで日本で過ごした5年の日々に、混血のノグチは幼心に自分が他の子どもたちと何か違うらしいこと、彼らとは別の世界に住む変種であるかも知れないという意識を否応なく抱かされたのだろう。また海の彫刻は「日米を隔てる太平洋の海原に揺れつづける彼の運命を暗示するように、〈波〉は無意識にも、イサムの造形の原点となる」(ドウス昌代著 イサム・ノグチ 第22回講談社ノンフィクション賞受賞作)
 岡田もまたこの小学校で無意識のうちに画家としての天分を育んでいた。
「子どものときから千代紙を集めたりしましたね。女の子みたいに。それから正月の飾りとか祭りの提灯とか。そういうものがたまらなく懐かしい」
「僕が下地の仕事を大事にするというのはもっと重大な事情があるの。誰でもそうでしょうけれど、美しいと思う感覚が、どこから生まれてくるのかと考えてみると、人間というものは、子どものころ無心に見たものが心に焼き付けられていて、その焼きつけられたものが大人になると発散して、そこから美しいという感覚が生まれてくる」(週刊朝日 1966年 井上靖との対談)
 岡田の千代紙への関心は最晩年まで薄れることなく、各種の包装紙や印刷物の切れ端をイーゼルの木枠や壁面に貼って画想の糧としていた。きみ夫人によると
「岡田は小学生のころから絵が上手で、図画の時間にサッと描きあげて、ひとりで外で遊びながら教室を覗き込むと、これを参考にしなさいと先生が絵を貼りだしていたことがよくあったそうです。家ではいろいろな千代紙を集めて、座敷の角を衝立のようにして千代紙を広げて遊んでいたと聞いております」
 当時の森村学園は公立の尋常小学校とはひと味ちがうユニークでリベラルな校風だったようで、同校の六十年史にある回想記などによると、小学校では英語教育のほかピアノ科や女子の割烹科などもあり、図画と手工科も先進的な指導が行われていた。低学年は色鉛筆での写生や絵日記が正課で、中学年になるとボール紙細工、竹細工、上級になると大工道具を使って六角の土瓶敷き、扇子立てなどをつくる。画用紙に工作図を描いてから、そのデザインや寸法どおりに作るなど設計から施工、仕上げまでの過程を体験するのである。絵日記は全学年の正課でもあった。
 ノグチは森村の小学校に進学するが、1911年9月、転居した茅ケ崎の小学校に1年生の2学期から編入する。先のドウス昌代の著書によると、ノグチは他界の半年前に《あざやかな記憶としていまものこる、数々の癒えがたい心的外傷を受けたのは、あの茅ケ崎での日々だった》と吐露している。森村学園では在学期間こそ短かったが、岡田ともども強く記憶に刻まれた学園での体験が造形の原点を形作ったといえそうである。
 
岡田は米市民に、ノグチは日本回帰

 二人の再会はそれから39年後のこととなる。ノグチは1918年に単身渡米して、24年にレオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校彫刻クラスに通い、この年、イサム・ノグチを名乗っての初個展を同校ロビーで開いて作家として歩み始める。27年にグッゲンハイム奨学金でパリに留学、藤田嗣治の世話でモンパルナスにアトリエを構えて29年まで過ごす。岡田は24年から27年9月までのパリに留学しているから、少なくとも最後の半年はノグチの滞在期と重なる。そこで二人の交流があったかどうか、岡田が留学中に家族にあてた数10通の書簡には、それを窺わせる文言はない。
 その後、ノグチは1930年に来日して京都に4か月ほど滞在するが、この折に岡田との再会があったかどうか、不明である。この年の岡田の日記を精読すれば、あるいは判明するかもしれない。そしてノグチが森村を去って39年を経た1950年5月13日。
「近頃仕事をしないせいか頭がにぶる。朝野口勇氏の住所聞きに(ニューヨークから今二ケ月の予定で来ている)岡本氏へ行く。野口氏の仕事、ジャン・ミロ他のアバンガルドの仕事を見る。そして自分の方向の正しさを知る。すなわち、暗示的、ショウチョウ的なものでないことを益々理解できた。......」
 岡本氏は岡本太郎である。二科会の同志である岡本は10歳ほど岡田の年下だが、10年におよぶパリでの生活を体験しており、前衛美術の第一人者でもあった。岡田が海外美術の動向を探るために、岡本のアトリエを訪ねることも稀れではなかった。
 そして同年6月30日。
「朝、朝鮮の号外あり。大したことにならざる様たのむ。朝デコと出かける。先ず川原君に銀座で逢い、一しょに食事後領事館に行く。結局内容が解り、期間の問題も事情が変化す。木下さんにより打合せし、lifeに三木と逢う。そこに野口君と逢ふ。皆と一しょにエジュケーションにより、大きな車で家に来ることに成る。話大いにはずみ、思った通りの野口君だった。好漢児でうれしくなり、絵を見せたり、寫眞とったりスシを食べたりしてゐる時に湯浅家族来る。皆が引上げたのが九時半。静かになってデコと今日のこと色々話し、一時前に寝る」
 岡田夫妻の渡米の出港日が8月11日と決まっており、その準備に追われている最中だった。 <lifeに三木>は、LIFE誌の写真部記者であった写真家・三木淳である。三木もまたアメリカ本社への出向が決まっていた。ノグチがこの来日時に三越で開いた個展は戦後日本美術に大きな刺激を与えるものだった。ノグチは岡田との再会をはじめ、これを機に猪熊弦一郎、長谷川三郎、丹下健三、谷口吉郎らとの交友も始まる。
 渡米した岡田夫妻がロサンジェルスで1か月ほどを過ごしたあと、11月8日にニューヨーク入りしてほどない13日、電話で事前に連絡を受けていたノグチと会うこととなる。
「午後、野口氏がカーで向ひに来て、河向のブルックリンに行きブルックリンミューヂアムで東洋のものを見て驚く。......田中チヨの新しいキモノのショーを見て、かへり暗く成って橋からすばらしいマンハッタンの夜影を見る。
 美術館を会場とする「キモノ・ショー」を実現させたのはノグチだった。戦後日本からの初めてのファッション・ショーとして田中千代服装学園(現田中千代ファッションカレッジ)の田中千代やモデルを招いてのショーである。会場にはまだ多くはないニューヨーク在住の日本人の主だった人たちが集い、戦前から在米の石垣栄太郎・綾子夫妻や総振り袖姿の山口淑子の姿もあった。48年に『わが生涯の輝ける日』(吉村公三郎監督)で映画界に復帰し、1950年のこの年早々に封切られた映画『暁の脱走』(谷口千吉監督)が大ヒットして女優李香蘭が女優山口淑子としてスターの座に返り咲いた。また改めて吹き込んだ『夜来香』も大ヒットしていた。
 このころ日米芸術親善使節として渡米した田中絹代を皮切りに芸能人の渡米が盛んになっていた。渡辺はま子、勝太郎、宮城まり子、まだ13歳の美空ひばりら、大半はドル稼ぎを目的の歌謡関係者だった。山口淑子もその一人だったが、山口は戦時中、米軍の日本語通訳養成の授業で李香蘭の映画が教材として使用されていたため、日系兵の間で人気が高かったという。
 このキモノ・ショーがノグチと山口との初対面の場となった。このとき岡田夫妻とノグチが山口と交わした会話は挨拶程度だったが、きみ夫人はこの折りのノグチの様子に「一目ぼれしたようだった」と直感したと述懐している。ショーの3日後にノグチを自宅に招いた石垣綾子も似たようなことを雑誌『文藝春秋』(1952・1月号)に書いている。
≪その日の夕べ、招待したイサムさんは何か期待した面もちで、早めに私達のスタジオ・アパートにやってきた。......そこへ、黒地の支那服に大きな花の刺しゅうをつけた淑子さんが、ドアーのベルを鳴らして入ってきた。私が二人を紹介すると、彼女の大きな黒い瞳と、イサムさんの鋭い、澄んだまなざしは、その瞬間ぴたりと吸いついて、花火がとび散ったようであった≫
 翌年二人は結婚して、北鎌倉の北大路魯山人のもとで新居とアトリエを構える。生活の場が岡田夫妻はニューヨーク、ノグチは日本と逆転するが、ノグチは文字通り世界を舞台に活動することとなる。ニューヨークでの互いの個展に足を運ぶなど、交友が途絶えることはないが岡田、ノグチの二人展が実現したのは1955年9月のことだった。ワシントンのコーコラン美術館での開催である。
「...タクシーでトランク持ってペンで一時間早くのり込み、約四時間後にワシントンに着く。ステーションのレストランで食事すまして、タクシーでリッチマンの家に着く。七時半頃野口氏も来てゐて夫妻他数人の人達で十一時頃迄話し、ウォトキンス夫人のカーで郊外の静かな部屋に着く。十二時過ぎ床に入る。外は虫の声」(九月二八日)
「...リッチマン夫妻と野口夫婦らで大使館で大使イグチの中食に行き、午後三時は会場で大使のアイサツあり。相当の人だった。久しぶりに逢った人達がい、びっくりしたり、ウィルヘルム家族にあへたのはうれしかった。夜のレクチュアはヘイコウした。...」(二九日)
 二人展の内容については記していないので、その概要は不明である。ウィルヘルムは戦後、横浜に配属していた米軍大佐で、岡田は同氏とその家族の肖像を描いたのを縁に、交友していた。
 二人展ではないが、二人が競作をする機会を得たのがチェースマンハッタン銀行東京支社頭取デイヴィッド・ロックフェラーから直接依頼されての仕事だった。皇居・和田倉門近くのAIUビル内にある支店の新装に伴って岡田は壁画、ノグチはモニュメントの制作を依頼されたのである。
 1972年7月10日付のその文書には制作依頼の趣旨のあと文末に、新築予定の自宅ホールに2、3年前に求めた岡田の大きな作品を掛ける予定であること、現在の家のベッドルームの壁面には昨年求めた岡田の作品を飾っていることなどが記されている。いわば公の文書に私信めいたことを書くのは、岡田夫妻との親交の強さを物語るものだろう。きみ夫人の最晩年まで、デイヴィッドからのクリスマスカードが届いていた。
 この計画のディレクターとして選ばれたのが建築家のバン・シャフトとモダンアート・ミュージアムのキュレーターであるドロシー・ミラーだった。岡田には壁画の下絵、ノグチにはモニュメントの模型を提出することを求められた。ノグチはそれに応じたが、下絵に拘束されることを嫌う岡田はそれを拒否した。この結果、二人はこの構想から外され、ディレクターは新たな人選を始めた。岡田がいきさつをデイヴィッドに話すと、デイヴィッドは逆にディレクター二人を解任して、後任を決めることもなかった。
 このため、結果的にノグチは蚊帳の外に置かれることとなって、作品が残されなかったことが惜しまれる。岡田の『シーズン[四季]』と題した作品は縦3・9メートル、横6・96メートルという大作である。伊豆高原のアトリエ・別邸で心臓疾患による体調不良と闘いながらの制作だった。
 
 森村学園での体験という共通の根を持つ二人は、他の作家同士にはない絆であるいは結ばれていたのかも知れない。ノグチにとって、森村での日々が天国であったとすれば、最晩年までしこりとして残した茅ケ崎での日々は地獄にあたる。このころ岡田は「...外国人に生まれたほうがいいな、なんて思って、鼻に洗濯バサミをはさんで、痛い思いをしたもんです...」(井上靖との対談)というようにノグチとは対極の域にあった。外へ外へと、多様な表現に向かったノグチ。内へ内へと向かって清雅、静謐な表現に求めた岡田。対照的な歩みではあるが、岡田の、2歳年下のノグチへの敬愛が日記の文面から読み取れる。(文責:北湯口 孝夫)
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