画家・岡田謙三の世界 
Kenzo OKADA 
 岡田謙三と良き仲間たち  Hiroki ODA
織田広喜 (1914~1998) HIROKI ODA
 
 
 写真は1994年頃の織田広喜(世田谷の自宅玄関前で)

●岡田家に寄寓3年
「きみさん、東郷さんが何か話をしようとするときに顔をしかめたり、視線をスッとそらすようなときは要注意だよ」
 きみ夫人は岡田謙三と結婚して、東郷青児をはじめとする二科会の画家たちとの交友が始まった当初から、そんなことを聞かされていた。東郷は若い日に有島生馬の門下で育ち、フランス留学のあと二科会会員となり、1938年に二科に「九室会」が結成された折には藤田嗣治とともにその顧問となっている。岡田は最も年若いが、有島、藤田とは深い交友があり、4人の間に年齢やキャリアによる垣根はなかった。
 その東郷が岡田夫妻に思いがけない提案をしたのは終戦翌年秋のことだった。岡田夫妻はこの年の春に、疎開先の宮城県登米郡宝江村から自由が丘の自宅に戻ったばかりのころである。戦中、米軍機の機銃掃射の弾丸が屋根や庭の松の木を貫いたが、幸いにも家屋の焼失は免れていた。一方の東郷は前年1945年8月の終戦と同時に疎開先の長野から東京に戻り、9月には杉並区久我山に新居を構えて二科会の再建に奔走していた。岡田家の応接間で二科再建第一回展の話題が一段落したあと、瞬時の変化をみせた東郷の表情に、きみ夫人はフト身構えた。
「岡田君、このごろは空き巣だ強盗だと物騒なご時世だし、これから何かと忙しくなろうというときに奥さんをひとり残して外出するのは心配だろう」
「確かにね、一人残すのも、二人で出て家を留守にするのも心配は心配だね。それで?」
「いや、書生でも置いたらどうかと思ってね。一人いい青年がいるのだけれどね。君らを訪ねるように言っておくから、よろしく頼むよ」
 東郷はそれ以上を話すことはなく、一方的に話を打ち切った。きみ夫人の言によると、そんないきさつを経て数日後に現れたのが織田広喜だった。
 
 当時のことを東郷自身が記している。
「織田広喜君がどんな生活をくぐってきた人か私は皆目知らない。
 戦後何とはなしに私の家にやって来て、家事の手伝いなどをして呉れていたが、そのうち岡田謙三のところにゆき、それから中原実のところに行って、其処の物置小屋を改造して住んでいた。
 古カンバスを買い集めて二三百号大につぎ合せ、メランコリックな絵を描いて、二科賞を取ったのはその頃だろう......。
その後、万宮リラ君と一緒になり、手製のバラックで愛の巣をいとなんでいる。手製のバラックと云っても、普通の想念では到底考えられない奇々怪々の小屋である。滅茶苦茶に打ちつけた板が灰色に塗ってあり、ひょろひょろと不安定に背伸びした家の屋根からは、太い針金が四方に張り廻してある。小屋の前に馬をつなぐような丸太の枠が立っているので、何かと思ったら,其処にカンバスを立てかけて描くと云うのである。
 露天で、片手にかさをさしながら、五百号大の力作を描く織田君の姿を私は何時も想像しては楽しんでいる。
 ......野ざらしになったぼろの籐椅子に腰かけさせられて、リラ君のいれた紅茶を飲んだ時、郷愁に似た悲しさを感じたのである。
 ああ、この郷愁は何処かで感じたことがあると思ったら、それは何時も織田君の絵で感じる灰色の郷愁だった。
 織田君の絵には童心のような憧れがある。
 その憧れは日本の何処にも見当たらないような異国風のものではあるが、それでいて、惻々と胸に迫ってくる不思議な力がある。
 力というよりも一種の詩情だ。
 茫漠たる世紀の不安だ。
 ピカソにもブラックにも影響されないで、ただひたむきな愛情で絵を描き続けている若い画家がいるとしたら、それは奇蹟である。
 私はその奇蹟を織田君に見出している」
 
これは「織田広喜のこと」として、東郷が雑誌『アトリエ』(第312号 1952年11月号)に寄せた一文の抜粋である。記事の通しタイトルに「新人の頁」とあるから、この年9月の二科展で会員努力賞を受賞した織田が採りあげられたのだろうか。織田は会員推挙から2年目のいわば新人である。二科会幹部の東郷が新人紹介原稿を依頼されて「織田広喜君がどんな生活をくぐってきた人か皆目知らない」と記すのは当然として、画家・織田の爾後の歩みを予見するような、東郷の慧眼が滲む文でもある。
 ともあれ、これによると織田は岡田家に寄寓する以前のごく短期間、東郷青児宅に身を寄せていたことが伺われる。「家事の手伝いなどをしていて呉れたが、そのうち岡田謙三のところにゆき」と他人事のように書いているが、このころ東郷の長女たまみは7歳、娘のためにも、また自身の画業や二科会再建のためにも書生の面倒を見るゆとりはなかったに違いない。(岡田家に寄寓したころの配給手帖の世帯員名に織田の名が記されている:写真)

. 岡田家に寄寓を始めたとき織田は32歳、それまでの歩みは苦難のそれだった。1914年、筑豊の炭鉱町、嘉穂郡千住村(現在の嘉穂町)で8人兄弟の次男に生まれ、3歳の年に隣村の碓井村に転居、上京する18歳までをその地で過ごした。鉱業所で経理を担当していた父君は病気がちで、床にあるときは好んで集めた美術書や画集を飽くことなく見て過ごしていたが、そうした蔵書を織田は幼い頃から興味深く眼にしていた。
「小学生のころにはそれが私の絵本替りで、模写のようなこともしていました。10歳のときには村の西楽寺の住職・雲外和尚に墨絵の手ほどきを受けました。私が寅年ということもあってか虎が好きで、11歳のとき祭りの縁日で円山応挙の『竹虎図』の模本を買って、虎の毛の一本一本にいたるまで何日もかけて描いたこともあります。15歳の時には描きためた水彩画や鉛筆画を村祭りの日に玄関先に並べて個展のようなこともしました。18歳で上京する前には雲外和尚の勧めで碓井村の帝展入選作家・犬丸琴堂に油絵の手ほどきを受けました。東京へ出てから苦労の連続でしたが、幼い頃から苦労には慣れていましたから、苦労を苦労と思ったことはありませんね」
 上京して2年後の1934年に日本美術学校絵画科に入学、39年に卒業するまで職業を転々としながら学び、卒業のこの年、二科展初入選を果たす。その入選作は前年から書生として勤めていた雑誌『みずゑ』主幹・大下正男邸(小石川関口駒井町)の応接室である。『みずゑ』では配本や図版の整理などを手伝い、その後、数年間、大下邸の納屋に収納されている近代フランス名画選集の原色図版等から、指定された図版を取り出す仕事をまかされていた。
「たとえばドランの赤毛といえば、それがどこにあるかすぐ分かるようになっていて、それを出してくるのです。何年もやっているうちに絵と名前を全部覚えるようになったし、何よりもそこにいるのが楽しく勉強にもなりました」
 太平等戦争勃発後も『みずゑ』は刊行されて織田の仕事は続くが、1944年に徴用によって横川電気製図部に配属される。翌年には工場の富士山麓への疎開によって織田もそこに転居する。そこで終戦を迎えるが、戻った東京では進駐軍に雇われ、各種施設の壁画などを描いて過ごしていた。東郷が記す「戦後何とはなしに私の家にやって来て、家事の手伝いなどをして呉れていた」のがこのころのことだった。

 岡田夫妻にとって織田は見知らぬ人ではなかった。夫妻と『みずゑ』の大下正男とは親交があり、織田が大下邸の書生であったことは承知している。東郷が岡田夫妻に書生を薦めたとき敢えて織田の名を出さなかったのは、きみ夫人が織田の1歳年上という年齢の近さを案じたのであろうと夫人は推測しているが、夫妻は織田を快く書生として迎えることとなった。
「織田さんがウチへ来られるようになったのは、織田さんが『黒装』という作品で二科賞を取られたころだったと思います。絵の具がないから白と黒のペンキで描いたということでしたが、あの時代にはあまり見られないお洒落ないい作品でした。
 ウチへ来られてからは小部屋を使っていただいたのですが、来られてからしばらくすると、朝早く出かけては夕方に帰るという日があまりにも長く続いたのです。それで珍しく岡田が怒るように注意していました。織田君、人の年齢には限りがある、画家はいつも描いていなければいけない、生命があるうちに大いに描きなさい、というようなことを言っていました。それからの織田さんは用事以外の外出は一切しないで部屋にこもって描いていました」
「そのころ私はパリに憧れていたのです。若いころから憧れつづけて、行きたい行きたいという思いから、いつの間にか銀座に足が向かっていました。朝から夕方まで街並や行き交う女性の姿やファッションをスケッチしたり、ぼんやり眺めてはパリに思いを重ねていたのです。先生には大目玉を食いましたが、先生は私を決して書生扱いをされないのです。用心棒として小間使いとして扱ってくださいと言っても決してそうはされない。藤田(嗣治)先生や荻須(高徳)先生、海老原(喜之助)先生をはじめ、先生方がお見えになったときなど、用事がすむと織田君こちらへいらっしゃいと私を呼んで話に加えて下さるのです。
 そして当時の二科展は東郷先生を初め幹部の先生方が、若い人は小品ばかり描いていては勉強にならないから大きい作品を描かなければいけないと奨励する大作主義で、500号、1000号といった大作に大勢とり組んでいました。岡田先生がそうした大作を描く姿を間近でみて、私は大作の進め方や絵の基本をハダで勉強させていただきました。絵は教わるものでも教えるものでもない、誰もみな感性があるのだから、その感性を描きなさいと。美術学校では学べないようなことを学ぶ日々でした。
 織田くん、ウチへ来たらどんな人も3日と居れないだろう。居られたら好きなだけいなさいと先生は仰言いましたが、3日どころか結局4年もいさせていただきました。みずゑの大下さんと岡田先生には言葉にできないほど大事なことを教わったような気がします」
 大下正男は不運にも日本における最初の大型ジェット旅客機事故とされる全日空機の事故によって他界している。1966年2月、千歳空港を発って羽田空港に向け着陸進入中のボーイング727が行方不明となり、乗客乗員133名全員が死亡した事故である。織田はその痛切な思いを日動画廊の機関誌『繪』に記しているが、大下の急逝は岡田にとっても不運をもたらすものだった。大下は岡田の伝記を刊行すべく自ら談話取材を始めていたのである。それがどこまで進んでいたか不明だが、幼児期を語った下書きかゲラ刷りの一部を読んだのか、岡田の日記に「子どものころを思い出すのは楽しい」という一節がある。大下の他界後、きみ夫人が子息に確認したところ「すべて父が一人でやっていたので、どこまで進んでいたのか私にもわかりません」ということで、刊行には至らなかった。
 織田とほぼ4年間を同じ屋根の下で過ごしたきみ夫人には忘れられないエピソードがある。
 織田が寄寓を始めての初夏のある日、きみ夫人は近所の家の前で額を寄せあう子どもたちに出会った。見ると、彼らが軒下の巣から落ちたと思われる数羽のツバメの雛が路上で囀っている。それを扱いかねて困っている子どもたちから雛を預かり、家に持ち帰った。夫人は織田とともに巣箱を作り、庭の垣根から昆虫を捕らえては雛の餌にする。そうして雛を育てていたある日、織田は外で会う近所の人が自分に向ける視線に違和感を覚えた。きみ夫人が近隣の人にツバメの雛を育てている話をするとき「うちのツバメが、うちのツバメが」と言っているのだった。それを知った織田は「奥さん、ウチのツバメがと言うのはやめた方がいいんじゃないですか」と言ったというのである。

 織田を迎えたころから、岡田夫妻は渡米に向けて準備を進めていた。1949年3月に藤田嗣治が渡米したあと、翌年8月には岡田夫妻の渡航が決まるが、夫妻にとって織田の処遇は大切な問題だった。岡田が思いをめぐらせたとき、二科の仲間である中原実を思い起こした。武蔵野市吉祥寺に住む中原の家の庭には大きな納戸があり、作品置き場になっている。少し手を加えれば住むことも描くこともできる十分なスペースである。また中原は織田の画家としての才能を高く買っている。それを知る岡田は、渡米の報告がてら会った中原に織田の世話を依頼をすると、中原は快諾した。
 岡田夫妻が渡米した翌1950年、織田は同じ二科の画家、萬宮リラと結婚、杉並区高井戸に東郷の言う「手製のバラック」を建てて、新たな生活を始めた。
「2坪ほど(6.6平米)の土地に、近所で拾ったり人からいただいたものを使って一人で建てた、はじめは電気もないボロ家からのスタートでした。岡田先生はアメリカで成功され、私もまがりなりにも画家としてやってこられましたが、私ひとりの力でできたことではありません。大下さんや岡田先生ご夫妻のことは一時として忘れたことはありません」
 その思いの強さを表すように、織田の画集や図録類には必ずといってよいほど二人の名前が記されている。2001年に京王プラザホテルできみ夫人の米寿祝いの集いが持たれたとき、スピーチを乞われた織田が口にしたのもやはりそのことだった。(写真は米寿祝でスピーチする織田)
 織田は1995年に日本芸術院会員に推挙されているが、その翌年、こんなことを語っていた。
「絵かきは、90歳になっても100歳になっても、仕事がダメになるということは決してありません。大作はできなくなりますが、その代わりに密度が高くなります。ガンバルという言葉も、いい絵を描きたいという欲望、というのもおかしな話ですが、まがりなりにもやってこられた。好きだからやってこられた。これからが本番と思うと、ワクワクするような気持ちになる。どんなに苦しい思いをしても絵を描いていられる。歳をとって、気持ちはむしろ若くなる。これからもそう、一枚でもいい絵を描かないと、死んでも死にきれません。歳はすぐ来ますから」
 かつて岡田にたしなめられた、その言葉のままのようである。織田は1995年に日本芸術院会員に推され、2003年にはフランス政府芸術文化勲章・シュバリエを受章している。2006年から二科会理事長を務め、12年5月30日に他界した。享年98  (文責:北湯口 孝夫)   このページの上へ  
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