画家 岡田謙三の世界
 Kenzo OKADA
 岡田謙三と良き仲間たち  堀 文子
                                     年齢と性差を越えた画家の絆

「午前中仕たくして、午後森下君と築地に着。後から、土門君と堀嬢来り、黒潮丸に乗船(五百トンなるも速力ある)五時頃出航。二等室の客に閉口。羽田オキに四時間トマリ、デコはすっかりもどして、元気なのは土門君と自分丈。波高く船は大いに揺れる。三宅島に暁により、午後二時に八丈島に着く.」(1949年4月24日付 岡田謙三日記)
                         
 文中の土門君は写真家・土門拳、堀嬢は日本画家・堀文子、デコは岡田きみ夫人の愛称である。森下君は、当時、渡米準備を進めていた岡田夫妻がニューヨークの友人ソール・シャーリーにスポンサーシップを依頼する手紙の代筆などをしていた英語の堪能な青年である。10日間にわたる八丈島取材旅行の旅立ちのこの日は、堀文子さんと岡田謙三・きみ夫妻との長い交友の始まりとなる日でもあった。堀さんは女子美術専門学校在学中に新美術協会展に初入選していらい、同協会展に発表しており、前年の第1回創造美術展でも奨励賞を受賞していた。その出品作を暖かい目で見守っていたのが土門拳だった
「私は自己主張がありながら言わないような偏屈なところがあるのに、土門さんは出品作品を気にしていてくださったり、家にもよくお見えになられました。八丈島の話も土門さんが持ってこられたように記憶しています」
 土門拳は雑誌の仕事で岡田謙三の作品やポートレートを撮ったのを機に、岡田夫妻とは以前から公私にわたる親交を結んでいた。戦後、初めて開かれた八丈航路での取材旅行を岡田夫妻に誘われた土門が、堀さんに声をかけたのである。堀さんは外交官の箕輪三郎氏と結婚して10日も経ない日のことだった。同行を決めた堀さんに、きみ夫人は「あなた結婚したばかりでしょ、一人で出ていいの?」と、問いかけたというが、堀さんは独立独歩である。
 まだ女の自由や人権が無視、軽視されていた男尊女卑の時代に、自立を目ざしていた堀さんは生命科学、生命の発生科学といったことに強い関心を抱いておられたが「美術はどんな運命がきても自由がある。美に近いところで生きよう」と選んだ画家の道である。美術学校を卒業後、戦争でご兄弟を奪われていた堀さんは、婦人解放、平和運動をより身近なものとして平塚雷鳥や神近市子女史との交友を深めながら、結婚に思いを馳せることもなく過ごして29歳になっていた。
「私の兄弟は戦死、国に殺されたのです。男を恨んだり、ある意味で蔑視したりしていましたから、結婚も不向きと思ってしようとは思っていませんでした。そんな時に知りあった箕輪は尊敬できる人、対等の人、一晩中話ができるような人で共感しました。結婚式はくだらないからと、家に近親者だけ集って形だけの披露をして、10日もたっていなかったときの八丈島の旅も何も言わず出してくれました」
 それまで堀さんは岡田の作品を個展や二科展で目にして「作品の品の良さとフォルムの温かさに惹かれて感覚的に尊敬していました」が、岡田はいわば雲の上の人である。期待と緊張の思いを抱いての旅立ちだったが、八丈島では島の子どもたちが岡田夫妻を外国人と見まちがえて「ハロー」と集ってくる。ちなみに翌年夏に夫妻が渡米したとき、謙三はイタリア人、夫人はインドネシア人かと、よく問われたという風貌である。八丈の子どもたちに気さくに向きあう夫妻の姿に堀さんの緊張の糸もほぐれ、旅の10日間で接した岡田の絵に向かう姿勢や、驕ることも高ぶることも、性差の別もなく一人の画家として堀さんに接する岡田の人柄に、堀さんは畏敬の念をいっそう深める。
 岡田はこの旅の様子を、先に渡米した藤田嗣治に伝えたのか、ニューヨークの藤田から寄せられた岡田夫妻への手紙には近況報告とともに「......八丈へ行ったり北海道へ行ったり、一番アメリカに近い処へ旅行している君達も気の毒だ。早く来れる様に祈ってる。デコが屹と喜ぶだらふと思ふ。可愛いもの許りあって、よく噂してる」などと記している。
 また堀さんは、この旅のあと、秋の創造美術第2回展に出品した『八丈島風景』で再び奨励賞を受賞する。取材旅行のあと、堀さんは折りに触れて自由ヶ丘に住む岡田夫妻を訪ね、時に夫妻が逗子の箕輪・堀夫妻を訪ねるなどして交友を深めていく。岡田夫妻の渡米の日程が決まるころに、堀さんは岡田に乞われて日本画の箔(はく)の使い方の指導をし、アメリカの知人への紹介状なども書いている。その知人は米国国際保険会社(AIU)社長C・V・スター氏で、堀さんの『猫』を描いた作品に感銘したというスター氏が堀さんのアトリエを訪ねたのが交友の始まりだった。「大富豪で絵好きなミスター・スターは近代文明やアメリカのコンテンポラリー・アートを嫌う古風な人で、東洋的なものを好む方でした。日本に来るたびにお供をつれて私の家に来られて、未完の作品や見せたくない絵まで見つけ出して持っていかれる。岡田先生がニューヨークにいらして困ったときにミスター・スターをお訪ねしていただけばと思ったのです」 
 岡田の渡米の動機や目的は、堀さんを心底納得させるものだった。岡田は新聞社等主催の各種秀作展や選抜展の常連で戦後の二科会、というより日本の画壇の中軸をなす画家と目されていた。その実績や名声のすべてを棄てて、48歳にしてアメリカでゼロからの再スタートを図ろうとするのである。
「先生は人気の真只中の婦人像などに行きづまって、それまでの仕事を否定してご自分を変革されようとしていらした。当時から幽玄の美に関心をお持ちになられて、和舟や丸太舟、三方の美しさをよく口にされていました。日本を発見するためには、日本にいては過去の名声や仕事に捕らわれてそれができない。外国に身を置いて初めて日本人を自覚する、いかに異質の文化を持つ民族かが見える。そのために先生は不安を断ち切ってアメリカに行かれた。普通にはできないことで、立派です。いずれ私もと思っていました」
 岡田夫妻は1950年8月にアメリカに発ち、58年1月まで7年間をその地で過ごす。その間に岡田は画商ベティ・パーソンとのコンビでニューヨークの画壇を席巻するほどに名を高め、アメリカ芸術アカデミーと国立芸術研究所が選出する全米優秀美術家の一人として2度選ばれる。2度の選出は異例のことである。
 7年ぶりの帰国以後、岡田夫妻は東京とアメリカを往来して過ごすが、夫妻は1962年にヨーロッパ各地を歴訪する。岡田はかつて東京美術学校を退学して渡仏、エコール・ド・パリ全盛期のパリで貧苦と闘いながら4年間の青春の日々を過ごした。そこで岡田は海老原喜之助、高野三三男、高崎剛らとともに藤田嗣治に私淑していた。その地への35年ぶりの再訪である。そこには藤田夫妻がおり、堀さんがいた。
 堀さんは前年来、パリの西、数10キロの田園にある、古い貴族の館で過ごしていた。「長く病床にあった箕輪が鬼籍の人となり、絵の転機も迎えて私は少しノイローゼ、精神の支柱を失ったよう」になって、放浪のひとり旅の先に辿りついたのがその館である。いつの日にか日本を出たい、女学生のころから抱きつづけたその夢の実現であり、文明の原初であるエジプト、ギリシャ、ローマ、そして最後にアメリカと、念願の「海外を見ねば死ねない」という思いもあった。 岡田夫妻はこの年の4月、貴族の館に堀さんを訪ねて一晩を過ごし、継いで堀さんを誘って藤田嗣治夫妻と再会する。堀さんと岡田夫妻の交友が始まったころ、藤田は既にアメリカに渡り、そこからパリに移っていた。堀さんと藤田とは初対面である。
 藤田はパリ郊外、セーヌ県ヴィリエール・ル・バークルに買った農家に移り住んで半年ほどを経たときだった。寒村に隠棲した藤田は、その心境を書き残している。
「......偽りが嫌いだ。人を疑いたくもない。しかし益々世間時勢が悪化して、人を疑わなくてはならなくなってきた。偽りと本当の真実を見分けなければならなくなってきた。寧ろ孤独に生きて雑音を耳に入れないようにしなければ、時間を自分のために持つことが出来ないと、益々思うようになった。これが今日の私の実情で願いである。それでパリから隠棲し、寒村に居住し、門戸も閉じている。世の中を捨てたのではない。遠去かっただけの事だ」(藤田=夏堀書簡)
 門戸を閉じたという藤田だが、岡田夫妻は別格だった。そこで堀さんは「藤田と岡田両先生の信頼の深さ、その強い絆を目の当たりにして感動しました。俗界を離れ清々しく澄みきった藤田先生の風貌は、軽妙洒脱の江戸の名人を思わせました。藤田先生は戦後の日本で屈辱の限りを味わわれた筈。晩年、子供をテーマにされた作風の変貌にその傷の深さを見た」ように思った。
 堀さんは、このあと、館の主の「あなたのような日本人が何故アメリカに」の言葉を背に、1年半ほどを過ごした館を離れてアメリカに飛ぶ。ニューヨークからバスでおよそ4時間、ヴェスターローという小さな村から車でさらに15分ほど、レンセラビルにある岡田夫妻のアトリエ・別荘が落ちつき先である。美しく広大な山林に包まれて建つ一軒の白い家と、別棟のこれも白い大きな家があり、その二階が岡田の仕事場である。二棟を建てたのは、夏季にニューヨークの若く貧しい画家たちに開放するためだった。
「そこの一階の画室に住まわせていただきましたが、フランスでは家賃を払って下宿人、岡田家では居候でした。当時、先生は名声を博していらして、本当にいいお仕事をなさっていた。大和絵、光淋や宗達を理解した平面の美しい気品ある絵、日本人の忘れていた優雅な貴族的な絵を描くのを、毎日、見ていました」
「そこはホタル、スカンク、鹿や野鳥が出たり、自然がすごいのです。私は庭好き自然好きで、人と会うより草木がどうした、鳥や動物がどうしたと、そういうものに入れこんでいました。先生が慣れない外仕事に興味を待たれて、大きな石を掘ったり、庭仕事に熱中して、足を骨折されたというアクシデントがありました。私の責もあるかと......」
 レンセラビルにはニューヨークの美術家や、日本からの来客が絶え間なくあった。その一人、桑原住雄氏か、日本の美術記者が堀さん滞在時の訪問記を書いている。岡田の近況や画論を紹介するその一節に、次のようにある。
「......仕事場の下の部屋にはじゅうたんが敷いてあり、そこで岡田氏夫妻と、ここに寄宿している堀文子さんの四人で深夜まで話し合った。......堀さんも日本を出て二年あまりになるので今秋には帰るといっていた」(東京新聞 昭和38年7月26日)
 レンセラビルで過ごす合間に、堀さんはミスター・スターの家に招かれ、歓待を受ける。広大な邸宅の一隅に運転手、調理人、配膳人、家具調度人、庭師などを住まわせる豪邸である。そのスター氏が持つ別荘で暮らすよう勧められるが、堀さんは辞退した。「中国人の爺ヤをつける、勉強できるよう何なりとする」と、強い勧めにも堀さんはそれを甘受する心境になかった。
 ニューヨークでは猪熊弦一郎に会い、イサム・ノグチにも会っている。猪熊と岡田は東京美術学校の同期生、堀さんは創造美術が新制作協会と合流してその日本画部となった時いらいの知己である。イサム・ノグチは一時期を過ごした南高輪幼稚園、南高輪尋常小学校(現・森村学園)で、岡田の一学年下にいた。全学年合わせても10数名という創立時の学校で、岡田とイサムとはその時からの顔見知りである。
 猪熊との再会は、堀さんにとって望外のことだった。ところがニューヨークの日本人社会に「猪熊派」と「岡田派」なるものがあることを知らされて、堀さんは当惑する。異国に住む日本人は村社会、派閥めいたものを形成したがる。堀さんはそれが嫌だった。岡田にその意識はなく、日本を離れた一因は画壇という旧態依然とした人間関係から逃れることでもあった。「岡田先生にそんな意識はまったくないのに取りまく人たちが派閥を作る」のを見て、堀さんはとても耐えがたかったという
 レンセラビルやニューヨークで過ごす間に、堀さんは「居候をして、私はフラフラとして何をしているのか。何のために放浪しているのか、自力で歩かないと......」と、そこを離れる決意を固める。桑原氏に語った「今秋には帰る」を遠にすぎ、年を越していた。居づらくなった理由でもあるのかと懸念するきみ夫人は「遠慮せずいたいだけいるように」と強く勧めるが、岡田は同じ画家として堀さんの意を汲んだ。旅の終焉を決意した堀さんはアメリカを離れてメキシコにしばらく滞在したあと、1963年に3年ぶりに帰国する。
「ヨーロッパ、アメリカでは強いものに囲まれて自分を見失っていました。それがメキシコで、滅ぼされた民族の同じ系統に触れてホッとしました、ここに早く来ればよかったと......」
 堀さんはこの旅を糧に、新たな歩みを踏み出す。日本再認識、日本回帰の線上で、日本画の顔料の美しさを見事に引きだした清雅な風景や花鳥を描いて転身を遂げる。
 その後も岡田夫妻との交友は続くが、岡田謙三は1982年7月に急逝する。その5年後、堀さんはイタリアの古都アレッツオにアトリエを構えるが、近年は大磯と軽井沢のアトリエを制作の拠点にして今日に到っている。
 堀さんの仕事によせて、瀬戸内寂聴尼は「浄土の慈悲のこころ」と記しているが、堀さんは「岡田先生は最後まで雲水のこころを持っておられた。そして人のことを口にされることのない先生が、奥村土牛先生を尊敬していると、はっきり仰言っていたことが何故か忘れられません」と、強く胸に刻んでおられる。
 1913(大正2)年岡田きみ夫人は大震災のあった2011年の6月5日に98年の生涯を閉じられた。最晩年まで篠田桃紅さんとの交友を重ねたが、1918(大正7)年生まれお堀さんは100歳を越えてなお現役の作家として活躍しておられる。
 このページの上へ
      
TOP PROFILE   GALLERY   Photo・GALLERY  ARCHIVES  MAIL   LINKS